2015/06/29

森林浴

帰途、遠回りして戸隠泊。

小さい頃、家族で何回か行った場所だ。小学校の遠足でも行ったはずなのに、50年ぶりの戸隠は記憶と違う。もっとも、アルバムに写真があるから、行ったことがわかる程度なのだが。

宿坊では、信州サーモンの刺身が出た。食べるのははじめて。生臭くなくさっぱりしている。手打ちそばは汁もおいしく言うことなし。そばはだいたいどこでもおいしいので、決めては汁。岩魚の塩焼き(淡白)、カルビのバター焼き、……。


朝もたっぷり、いただいた。

宿泊客はボクだけ。と、久々にリフレッシュできた。



善光寺からのバスはスゴい。「七曲り」はじめ、急カーブの連続。ハンドルさばきは拍手をしたくなるほど。運転手にお礼を告げて下車した。このバスは乗るだけでも価値がある。しかも、戸隠連峰、鹿島槍の山並みが車窓から楽しめる。

2015/06/24

線は線でも

家の脇の架線が途中で切られたままブラブラしている。
ブラブラ部がけっこう長く、気になるので、電力会社に処置をお願いした。
翌日、連絡があった。
「確かめましたが、あの架線はNTT回線です。NTTの担当者に連絡しました。数日以内に作業するそうです」。
恐縮した。
よく考えれば、架線すべてが電線ではない。架線の見分け方を知りたい。

2015/06/23

老子か荀子か

いま学部紹介のパンフレットを作っている(昨年はゼミ編)。
今年度版のテーマは「ワークショップ」。
去年は、ゼミを「大学教育の、コミュニケーション学部の」とした。
考えた末に浮かんだのは、
「ワークショップは、大学教育の、コミュニケーション学部の」。
粋が通じるか、肝が通じるかという心配はある。
ワークショップをどう説明しようか困っていたときに、稲垣さんのコラム(東京新聞)が目にとまった。
私は大学の農場で全国の学生に農業実習プログラムを提供しています。「聞いたことは忘れる。見たことは覚える。体験したことは理解する」。実習をしていて思い出すのは、老子の言葉です。
「これだ、ワークショップの極意は」と思い、原文を確かめようとしたら、どうやら原典は「老子」ではなく、荀子らしい

しかし、荀子の言っていることは、「聞いた……」とはニュアンスが異なる。結局、よくわからず、パンフレットに「老子」を引用することはやめにした。

今日は「慰霊の日」。

2015/06/18

2015/06/15

個性の前に

桃井かおりとのラブシーンもあった。なのに僕の演技が下手クソで…」
は、財津和夫の弁(東京新聞、6/15夕刊)。

で、つぎのくだりに納得。
基礎が身に付いていれば、その上に自分の個性を載せればいいのですが、基礎がないのだから個性もクソもない。演技はほんとに難しいと実感しました。
自分自身にも言い聞かせたい。

2015/06/14

ゴミの行き場

使わなくなった品々をゴミ焼却場に持ち込んだ。
品川のゴミ工場しか知らなかったので、自分で直接、ピットに放り込む方式にビックリ。
足元は奈落の底。足がすくむ。
「落ちないように注意しましょう」という張り紙ですむような場ではない。
事故はないのだろうか。
ピットが閉じられていない。
ホコリが目にしみる。

2015/06/13

ザ銭湯

麻布の崖の「上」(別天地)と「下」(猫の世界)を散策してから、温泉銭湯「麻布黒美水温泉竹の湯」に行った。
タイムスリップしたような銭湯だ。
小学生や中学生がいる。
友だち同士でおしゃべりをしている。
お湯を出しっぱなしの子どもを注意する大人。
利用者同士の会話。

2015/06/10

ニューヨク

ある高校の掲示板に、ヨーロッパ研修に行った生徒たちの感想がKJ法風に張られていた。
その中の1枚。
「現地の高校生は、お風呂に2日に1回しか入らないが、なぜかきたなくない」

ちょっとビックリ。お風呂には毎日入るものと思っていることと、1日おきだと「きたなく」なるという発想に。

ところで「入浴に関する世論調査」によれば、2004年時点で「毎日」入る人は77%。

「毎日」派は多数派で、ボクのような非毎日派は少数派。

子ども時代を銭湯で過ごしたボクは、せいぜい一日おき。温泉に行ったら一日何回も入るけど。山に入ると、汗をかいても入れない日が続く。

2015/06/08

あぶない見直し

新聞社サイトで知り、びっくり仰天。
「その学部、本当に必要? 全国立大に見直し通知、文科省」(朝日新聞)
 主に文学部や社会学部など人文社会系の学部と大学院について、社会に必要とされる人材を育てられていなければ、廃止や分野の転換の検討を求めた。国立大に投入される税金を、ニーズがある分野に集中させるのが狙いだ。
「社会に必要」は誰かが判断しないと決められない。誰が判断するのか、いまの時点で判断できるのか。判断の基準は?
 さしずめ、集団自衛権を憲法違反と言った人は「必要ない」部類に入るのだろう。
 同質性は弱く、多様性は強いのに、そのことすら忘れられている。
 要不要の発想は、やがて「人」の分断、選別につながる。「必要な人」と「不要な人」。ナチスの人種政策を支えた優生学と同じ発想だ。

「必要な人」しかいない社会は無人社会かも。

2015/06/01

今は亡き二人の……

天野祐吉と多田道太郎の対話(『さよなら広告 さよならニッポン』、Pp. 223-251)。

「ネーミングは宇宙である」の中で、「名詮自性」が紹介されている。
多田 日本でも、江戸時代に「名詮自性」という言葉がはやったらしいのね。もともとは中国からきたものですけど、名前が自分のアイデンティティを明かしている。(中略)そういう思想が、江戸も後期になると出てきている。「南総里見八犬伝」なんかにも、それは色濃く出ているんです。
天野 親は子供に、ある願いをこめて名前をつけますね。名前というのはあとからつけた単なる記号のようでいて、その実、その記号にかなり支配されたりするものなのかもしれない。
多田 (略)親がある意思を押しつけると、子供はそうならざるえなくなったりする。それが親にとっては快感なんでしょうね。
命名の快感か。考えたことがなかった。これも名前経験に加えよう。

この「対話」では、ゴシップの語源がゴッドシップ(ゴッドマザー)という話も出てくる。

参考 『忌み名の研究』(穂積陳重)



フルネームで呼んでくれてありがとう

スティールの『 ステレオタイプの科学 』に、こんなエピソードが紹介されている。  ある伝説の英雄と同姓同名の人物に出会ったことで、研究上の疑問が解けたという話である。  シャーマン・ジェームズは、人種による健康格差の問題に取り組む公衆衛生研究者である。たとえば、アメリカの黒人は白...