2017/08/29

怒りを示さなければならない

荒井裕樹(ゆうき) 「相模原障害者殺傷事件」への「怒り」は足りていたか
情報・知識&オピニオン imidas(集英社)

この論考を中島岳志さんの「論壇時評(東京新聞夕刊)で知った。

表題にもあるように、荒井さんは、あの事件に対する「怒り」不足をつく。なぜ、怒りの「熱量」が上がっていないのか。文中で障害者運動家の故横田弘の怒りに言及する。

彼の怒りの特徴の一つは共生のための怒り。もう一つは空気を読まなかったこと。

荒井は、怒りと憎悪の違いを強調する。憎悪は相手を拒絶する感情、怒りは相手を認め、つながることを意図している。



ボクは、もしかしたら、その人かもしれない。ボクを含む誰もがその人かもしれない。ならば、「その」人に対して、誰が憎悪できよう。怒りはありえても、憎悪はありえない。自分を憎悪することになるのだから。

同じような問題を共感で解こうという人もある。しかし共感と言った途端、能力が問われる、共感能力として。能力とは個人のもの。その力量には個人差がある。そんなものに期待はできない。「もしかしたら、私かもしれない」。



「空気を読まなかった」であることを思い出した。先日発表された内閣府の生活に関する世論調査である。満足していると答えた人の割合が過去最高だという。調査は対面式でなされている。目の前の調査員に「不満」と答えたら悪いだろうなあ。空気が読めない人と思われたくない。と思う人が増えているのかもしれない。もとより否定的な回答はしにくいもの。それを後押ししたのがこうした気持ちではないだろうか。

フルネームで呼んでくれてありがとう

スティールの『 ステレオタイプの科学 』に、こんなエピソードが紹介されている。  ある伝説の英雄と同姓同名の人物に出会ったことで、研究上の疑問が解けたという話である。  シャーマン・ジェームズは、人種による健康格差の問題に取り組む公衆衛生研究者である。たとえば、アメリカの黒人は白...