2017/11/16

拝外主義のルーツ

遠藤正敬(まさたか)さんの『戸籍と無戸籍』を読み始めた。以下は、斜め読みの記録(※はボクの補足)

カテゴリー別登録
 大日本帝国は、民族別に登録制度を区分していた。朝鮮戸籍と台湾戸籍。さらに後者は漢族と漢族以外の原住民(アミやタイヤル)で、台帳を分け、前者は戸口調査簿、後者は蕃社台帳などで管理。※蕃社とは「日本統治時代、台湾の先住民族(高砂族)の集落や集団に対する呼称」(大辞泉)である。ちなみに蕃は「未開の異民族」を、「社」は祭祀さいし集団を意味する語。
 これらは「帝国臣民」の枠内で被支配民族を重層的に差別するものである。戸籍の発想は、国家による差別を合理化する目的もになっている。
 韓国は2008年に戸籍制度を廃止、個人単位の家族関係登録制度に、台湾は〈戸籍〉という名称は変わらないものの世帯単位に登録になっている(遠藤『戸籍と国籍の近現代史』参照)

本籍不明と無戸籍の違い
 日本人が本籍を置く場所で最も多いのは皇居、つまり東京都千代田区一番。そのほか、富士山頂や大阪城に置く人も多数いる。

戸籍は臣民簿
 天皇と皇族は戸籍法の対象外。戸籍は臣民簿だからである。第二次世界大戦の敗戦でも変わらなかった。戸籍を持たないので、住民票も投票権もない。天皇と皇室を「国民」と見なすべきか否かは定説がない。

戸籍を棄てる「日本人」:徴兵逃れと戸籍偽装
 徴兵対象者から「一家の主人」「独子独孫」、養子、家産・家業の管理者ははずされていた。「家」をなくしたくなかったからである。これに注目して、戸籍偽装も。

無戸籍者への徴兵をどうするか
 徴兵忌避のための脱籍行為をなくすため、修身の教材で、兵役を国民の「義務」のみならず、「権利」であり、「恩恵」であるという自覚を促した。

不文律となった排外主義
 1946-47年。総司令部民政局は戸籍の純潔主義を批判の的にした。しかし司法省は、これも含め、戸籍という名称や家族単位の管理を守りきる。実質的に家制度は残ったまま。

戸籍と住民票の関係
 戸籍はあっても住民票はないという日本人は174万人。

終章は「戸籍がなくても生きられる社会へ」。

問われる戸籍の価値
 今日まで維持されてきたのは、国民管理制度として以上に、道徳律(信仰心)としての役割を託されてきたからである。国民意識や「血」意識の醸成、家意識の保持。※「籍が汚れる」はもとより、結婚を入籍と言う人についても、この感が強い。
 マイナンバー制度は戸籍意識解体の導火線となるだろうか。



 本書は、第39回サントリー学芸賞を受賞している。以下は、評者玄田有史さんの選評である。

〈社会・風俗部門〉
遠藤正敬(早稲田大学台湾研究所非常勤次席研究員)
『戸籍と無戸籍 「日本人」の輪郭』(人文書院)
 現在、日本国籍を持たない無戸籍の「日本人」が一万人にも及ぶという。しかし、この表現は正確ではない。制度では、戸籍を持たない人々は、日本人として認められないからだ。
 日本国民の登録を目的とした戸籍制度は、国家が国民を管理統合するために維持されてきた制度である。そのため、登録から直接・間接に除外された人々は、正しい日本人とは見なされない存在として長く差別や偏見の対象となり続けてきた。
 あわせて戸籍が「家」もしくは「家族」への所属を基本とし続けてきたことで、戸籍制度の存在は家に属していなければまっとうな日本人ではないという道徳律の定着を促す土壌でもあった。さらに言えば、国家とは究極的な一家であり、その家族の頂点に天皇が位置するという物語に順応するよう、戸籍制度は巧みに国民を誘導してきたのである。
 日本社会を語るとき、家族という概念に基づいて考察した思想研究はこれまで数多ある。しかし、家思想を制度的に強化してきた社会背景を語る方策として、家より排除された無戸籍に着目することを想起した筆者の着眼は、実にオリジナルかつシャープである。
 その上で日本社会の形成に強い影響を及ぼしてきた戸籍がなければ私たちの生活は立ち行かなくなるのかという問いに対する回答も明快に「ノー」だ。個人化・流動化が進むなかで、固定した家族や国民よりも、移動し得る個人である住民の権利確保こそが、行政では実質上重要視されている。公共サービスを受けるとしても、戸籍証明は今や形骸化した手続きの一部にすぎず、多くの場合、住民票で本来事足りる実情を、私は本書で初めて知った。
 制度運用の歴史でも、戦争によって戸籍を失った移民や残留者には思いのほか厳しく、一方で国内の棄児にはなぜか寛容であるなど、明確な基準は必ずしも存在してこなかったという。戸籍にまつわる国家の判断が状況に応じて機会主義・御都合主義的になされてきた事実を喝破できたのも、一般にはわかり得ないよう難解に表現された先例などの行政文書を、政治史学者として地道に読み込んできた筆者の技量によるところは大きい。
 社会・風俗にまつわる優れた学芸からは、その時代やその場所に生きた大衆の多様な喜怒哀楽や、そこから浮かび上がるやり切れない嗚咽やため息が、複層的に聴こえてくる感覚を覚えることがある。筆者は、現代社会を覆う無戸籍者に対するいびつな言説という実際の声に対する違和感が、執筆に挑む原動力につながったという。
 ただ本書は、無戸籍者の声を一つひとつ拾い集め、代弁するといった直接的なアプローチを意図的に選択しなかった。むしろ、戸籍制度を「安定的に維持することが国益になると信じる支配層が憑依したつもりで書くこと」を筆者は密かに心がけたという。そのアイロニカルな試みは、戸籍という奇異な社会装置を、躊躇なく受け入れ続け、周囲にある悲しみの存在の認識を怠ってきた我々読者に、静かな反省と憤りの感情を芽生えさせることに成功している。
 上位からの視線を敢えて演じつつ、制度に翻弄されてきた名もなき無戸籍当事者の姿を的確に描き出した遠藤氏の力量は、まぎれもなく社会・風俗部門の受賞に値するものである。

フルネームで呼んでくれてありがとう

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