2017/09/22

「水木さん」

 水木しげるさんは、「会話のなかで、自分のことを『水木さん』と言う。『私』でも『ぼく』でも『おれ』でもなく、『水木さん』なのである」。
 「それにしても、なぜ『私』や『ぼく』や『おれ』といった一人称ではなく、『水木さん』という固有名詞を会話で使いつづけたのか」。
 水木さんの弟子を自任する京極夏彦さんに、その理由をたずねてみた。
 「戦争のせいですね」
京極さんは即答した。
 「たぶん水木さんが戦争で失ったものが、『左手』と『一人称』なんですよ」
 いきなり核心を衝く展開になった。
 「戦争に行くまでは『おれ』とか、境港出身ですから『おら』と言っていたんですよ。それが軍隊では『自分』と言わなくちゃいけなくなったのが、最初のきっかけでしょうね」
 軍隊で水木さんのような二等兵が「おら」とか「ぼく」などと言おうものなら、たちまち上官の“ビンタ”が容赦なく飛んでくる。一人称は完全に封殺され、「自分」という杓子定規な呼称がそれに取って代わった。
野村進「多幸感のくに」第10回から(波、2017年9月号)。

 野村さんも指摘するように、自身を名前で呼ぶのは、自らを客観視するためのものだろう。自身を第三者として見る意識のあらわれ。
 学生のレポートを読んでいると、「私」は、と書くべき箇所を、「自分」は、とする文章に出会う。ボクも、この二文字を見ると軍隊を連想し、違和感がある。兵士でもないのに。

 「自分 」と書いてきた学生にたずねた。すると、高校時代、運動部で自分のことを自分と言うように言われたという。特に違和感はないらしい。なぜ、そう指導するのだろう。自分を捨てろということなのだろうか。女子生徒にもそう指導するのだろうか。



 野村さんの稿には、故郷に帰り、本名の武良(むら)茂に戻ると、「おら」となった紹介されている。でも、「それ以外の場所ではすべて『水木さん』でしたね」。京極さんの証言である。

フルネームで呼んでくれてありがとう

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