マスクをめぐるシュピーゲルの記事は、コロナ感染で重症化する危険の高い難病の女性が「自分にとってマスクは危険からの自由を意味する。友人たちがそれを理解したうえで着けてくれるのがうれしい」と述べたという件で締めくくる。
マスクは思いやりの証であるとの認識が、ドイツでも広がりつつあるようだ。
マスクの着用は思いやりではなく、感染防止。言うならば安全のため。なぜ、それが思いやりという個人の問題になってしまうのだろう。
同じ新聞に、こんな記事が載っていた。これは記者の文章ではなく、都庁の話。
「都庁、7ヶ月間利用休止。おもいでピアノ再開」
新型コロナの感染拡大で2月末から休止していた都庁展望室のピアノの利用が再開した。本体を草間彌生がペイント。駅ピアノとか空港ピアノのようなものだが、なぜか利用時間を11時から12時、14時から15時と限定している。不自由な話だ。このピアノ、なぜ「おもいでピアノ」とネーミングしたのか、都庁の人の発想がわからない。ただの都庁ピアノでよい。
いま都庁のプレスリリースを見たらこう書かれていた。
見出しは「都民の方から寄付を受けた、思い出のつまったグランドピアノ」。
ボクなんか、むしろ思い出から自由にしてあげたいと思う口だ。弾き手も場所も変わったのだから。
思いやりとか思い出とか、なぜ、わざわざ感傷的な表現を採用するのだろう。
