今週は授業公開週間。保護者も教員も聞きにいける。ただ事前申し込み要。
社会学の授業を聴いた。フーコーをこの数回取り上げているとのことで、今日はパナプティコン(一望監視装置)とdiscipilne(規律)。後半で主体ということばが頻出する。そうsubjectだ。
しかし、どうも用法が違う。調べると、この語に、こんな意味があった。
「臣下, 家来, 被統治者」
ふだんの意味と随分違う。
sub(下に)と、ject(投げ出す)の合成語がsubjectだ。
ネットで、こんな記述に出会った。著者はschaumlos。
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subjectに於ける相反する意味の同居、それは近代的主体が二重化された主体ないしは身体であることをほのめかしている。一つは、囚人自らが看守の肩代わりをしてみせたように、自己を監視し、自己に対し命令する主体であり、もう一つは、自分に監視され、命令され、行為する主体――「従順な身体」――である。このように二重化された主体は、常に自らを監視し、厳しい「規律・訓練」(「ディシプリン」, discipline)を自身に課すようになる。また、この主体を尽きない試験、つまり達成する毎に更に先へと設定される「ノルマ」(試験)が取り囲み、規律・訓練は永遠・無限に施されることとなる。
かくして近代的主体は、権力に対して大人しく従順であるのみならず、強制されることがなくとも、「自己への配慮」を欠かさずに自主的に権力にとって都合の良い行為に勤しむ。このようなものとしての主体が出来上がると、人間は、最大限の経済的利用が可能な身体に生まれ変わる。権力が身体を利用可能なものとして発見したとき――近代的主体が誕生したとき――、それはまた、近代資本主義の歯車が回転し始めたときでもあるのだ。単なるバカ力の持ち主はいらない。命令のシステム内に収まる連中のみが必要とされるのだ。(だから例えば、どんなに力持ちでも、工場や軍隊、運動会や体育の授業なんでもいいが、規則・規範(ルール、ノルマ)に従えない者ははじき出される。)フーコーはこんな風に言っている。「身体は生産する身体であると同時に服従せる身体である場合にのみ有効な力となるわけである」。「主体」や「個性(別)」を叫ぶとき、われわれは率先して権力に「従順な」身体になってしまっているのかも知れない。
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近代社会が礼賛する「個性」のあやうさ。はじき出されることのない健気な個性。
授業を聴くのは新鮮な経験だ。明日は文化人類学を聴きにいく。
2012/06/21
フルネームで呼んでくれてありがとう
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