2013/10/21

言葉の身体性

平野甲賀さんと新島実さんの対談で、文字の身体性が想起された。

で、先日読んだ対談(言葉の身体性)が思い出された(以下は抜粋の要約)。発言単位でピックアップしているので、発言間のつながりはなし。

S 言葉は実は身体がないと出せません。

S 田中泯という人は動物的と言うより植物的だと思っている。動物は一つの形を持つ。植物はどんな形をもめざせる。泯さんの踊りは原植物的な感じがする。

M 植物の方が細胞を意識できる。

S 実は言語は極めて植物的だという発想をしている人がいる。それがゲーテ。植物は原型があって(原植物)、それが茎になり、葉っぱになり、根になって、実になって、循環系を形成していく。言葉もそうではないか、と。日本でも紀貫之などの歌人が「言の葉」「言い草」というとらえ方をしている。

M 電話を取りに行く、つかむ、耳に当てる。めんどくさいから身体がためらう。それは、そこに持って行かれる、奪われるということ。でも、ひょっとするとツイッターは「まるごと持って行かれる」のでは。

S メディアはもともと身体を媒介にするもの。それが印刷活字になり、ついに手すら伸ばさなくなった。

巻頭対談「コトバとカラダのお作法はどこに行ったのか」M田中泯×S松岡正剛
(「春秋」2013年10月号)