2015/05/23

非専門を話す

東洋大学ライフデザイン学部開設10周年記念
第2回 人間環境デザイン学科連続シンポジウム
専門と日常—専門家から見た非専門的な世界

中庭に屋根をかぶせてできた、したがって吹き抜けのホールが会場。3階建てのビルは、天井が低く、木が多用されていることもあり、落ち着く。ところどころに障子もある。設計者は同学部の内田祥士さん。

演者は内田さんも含め、3名。

「建築写真には、何故、人が居ないのか:記録と表現の狭間に現れる建築家の世界観」
 仲綾子(専門分野:こども環境)
 建物は人が使ってはじめて完成すると言われるものの、いざ、それらの写真に人が写っていると、興ざめしてしまう。なぜだろう。やはり建物はそれ自体で完成しているのだろう。人が使い始めると、予想外の使い方をされたり、使う人の持ち物で埋まり始め、そのようすが写ってしまうと、それは空間の写真と堕する。

「鉄道時刻表は、何故、読み物ではないのか:検索される情報と記録としての情報」
 高橋良至(専門分野:メカトロニクス)
 はじめて同じ読み方をする人に会った。下の名前が「よしゆき」さん。彼も、一度も正しく読んでもらったことがないと言っていた。
 今回、初めて知ったのが時刻表の動詞形だった。時刻表は「読む」でも「見る」でもなく、「引出す」。ある号にこうある。「時間(ママ)表の引出し方」
「時刻表」は史料の宝庫だ。地図同様、印刷物としての時刻表は残り続けてほしい。

「電柱・電線は、何故、埋めたくなるのか:信頼を保全性の側から支える電線の壮麗なる姿」
 内田祥士(専門分野:建築設計)
 ディテールの美しさを見せつけられた。これを見るためだけに双眼鏡を買ってもいいなと思ったほどだ。電柱間の架線は高さも揃っていて許容できるが、各戸への電線(欲望線)は高さも本数もまちまちで混乱の極み。ホーチミンで黒々した電線を見てからは、日本で空を見上げると、ベトナムにいるような気分になれるようになった。

 今日のシンポジウムはなぜおもしろかったのか。それは楽しむことを優先してくれたから。冒頭のあいさつは、「ここには少し変わった人がいるらしい」「楽しんでいただけれと思う」「今日は話したいことを話す」「マニアックなシンポジウム」と、のっけからこんな調子。

 メインスクリーンとサブスクリーンの使い方が効果的だった。一方は写真、一方は解説といったふうな使い分けがいい。スクリーンサイズも大きさが異なり、メインとサブがすぐわかる。

 紹介された本
あの日からの建築』伊東豊雄
対談集 つなぐ建築』隈 研吾
建築に何が可能か』原 広司
時刻表タイムトラベル』所澤秀樹
都市計画』五十嵐敬喜・小川明雄

カラスさんの記録
通学路の途中に斎場がある。限りある生を実感させられる毎日だろうか。むべなるかな、学部名もライフデザイン。

フルネームで呼んでくれてありがとう

スティールの『 ステレオタイプの科学 』に、こんなエピソードが紹介されている。  ある伝説の英雄と同姓同名の人物に出会ったことで、研究上の疑問が解けたという話である。  シャーマン・ジェームズは、人種による健康格差の問題に取り組む公衆衛生研究者である。たとえば、アメリカの黒人は白...