2016/04/02

役に立つ? 社会?

 一気に暇になった、不安になるぐらい(笑)。で、手帖を確かめたが、確かにしばらく何もない。


さて室井さんの『文系学部解体』を読んだ。きょうの東京新聞の書評欄に吉見さんの『「文系学部廃止」の衝撃(ただいま2刷らしい、出版社のホームページによれば)が紹介されていて、その最後にちょっと顔を出している。

 山本義隆の『私の1960年代』に、帝国大学発足の背景が富国強兵とからめて書かれていて、それを読むと、文科省の方針はその時代となんら変わっていない。その意味で、一連の「文系」否定はいまに始まったことではない。しかし、いったん大学ができ、現時点から大学の意義を再定義する(過去の経緯から自由になる)ことは重要だ。

 室井さんの本で、ハッとさせられた箇所がある。横浜市交通局から依頼された仕事への対応だ。

 2002年、彼は、新型バスのラッピングデザインを頼まれる。その際、応募させて優秀作を選ぶという方法を彼はとらなかった。「半年間毎週、交通局の職員も入れて徹底的にミーティングを行い、バスの営業所を訪問したりするワークショップを行った。現在でも、我々がデザインした100台以上の白いバスが実際に横浜市内を走行している」。

 文系問題で、よく語られることがある。曰く、「すぐには役に立たなくても価値はある」「社会的要請に応えるだけが大学ではない」。しかし、そもそも「役に立つ」あるいは「社会」そのものが等閑視されている。「役に立つ・立たない」の判断は可能なのか。もし「産業的要請」であれば、それに応えるだけが大学ではない、とボクも思う。だが「社会的」ということばを使う以上、それに応えることは重要だろう。解決すべき「社会」問題は山積しているのだから。

 受益者という発想にこだわるならば、教育の当面の受益者は本人かもしれない。しかし最終受益者は社会全体である。賢い人が増えれば、そのぶん社会も恩恵を受ける。授業料はただにすべきだし、ましてや奨学金は給付にすべきだろう。授業料の工面に苦慮した人が、どうして社会に貢献しようという気持ちになれようか。

フルネームで呼んでくれてありがとう

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