本書は「日本で起きた古代・中世から現代までの自然災害(大変)が描かれている文学作品と、その災害の姿を追ったもの」。「大変」とは、地震、噴火、洪水、台風の4つである。
引用したい箇所ばかりだが、二つだけ、地元がらみで。
長野の「大変」は、天明三年浅間大噴火(1783年)、善光寺地震(1847年)が出てくる。こんなに大変だったとは知らなかった。典拠は、前者が立松和平『浅間』と大石慎三郎『天明三年浅間大噴火』、後者が伊藤和明『地震と噴火の日本史』。
浅間大噴火ではこんな記録が残っている。
近隣三村(大笹村、干俣村、大戸村)の有力者(長左衛門、小兵衛、安左衛門)が生存者を引き取り、小屋を建ててあげ、食糧も送って村民を助け、さらに家柄にこだわっていては村の復興は不可能と判断し、被災者同士で新しい家族を作ることを提案し、被災した鎌原村は再出発をはたした。三人は他の村にも手を差し伸べ、幕府はかれらを表彰し、帯刀と名字を許されている。
浅間大噴火は天明の飢饉に影響を与え、さらにフランス革命にも影響を及ぼした(上前淳一郎『複合大噴火』)という。
善光寺地震の章には、本堂東側入口のねじれた柱の話が出てくる。ボクは、こう聞かされていた。
何事も完璧はよくないので、棟梁が1本だけねじれさせた。その角柱は礎石に対して時計回りに20度ほどねじれている(新しい長野駅舎の正面の木の柱は、善光寺本堂の柱に似ているが、すべて礎石の形に沿っている)。
ところが実際は違った。この柱は地震柱と呼ばれ、地震の激しい揺れでねじれたとされてきたという。これには異説があり、再建時に生木を使った結果だという(本堂正面南西端の大円柱に疵(きず)ついた半円形の跡がある。これは地震ではずれた大鐘がぶつかったためにできたもの、はずれそうにない鐘で、いかに大きかったかを物語っている)。
びっくりしたのは大洪水の規模。この地震で地滑りと山崩れが起き、これが犀川の流れを堰き止め、その堰き止め湖がその後決壊し、川の水位が一時20mにも達し、その濁流は4時間を越したという。決壊を予想した松代藩は避難を住民に呼びかけたが、半月経っても、変化がなかったため、しびれを切らして戻った100人あまりが洪水の犠牲になった。
自然災害を文学作品で描くことは、「その文章の見事な描写力によって、災害のことが深く心に残る。もし読者が災害に遭遇した時に、印象深い文章の記憶が、その人の生死を分けるかもしれない」という効用がある。「稲むらの火」しかり。