まるで「能動態」と「受動態」の間にあるかのような「中動態」という名称は不釣り合いな感じがする。能動態と受動態があって、その間に中動態が位置しているように思えてしまうからである。中間ではないけれど、依存しているようだ、「能動態」と「受動態」に。「混血」をハーフではなく「ダブル」と表現するような感じだろうか。両方を併せ持っているというか。いい加減な解釈だろうね、きっと。
著者の國分功一郎さん。
「力に怯え心ならずも従う――カツアゲや性暴力、各種ハラスメントで顕著ですが、非自発的同意という事態が日常にはゴロゴロある。能動性、受動性という概念にうまく当てはまらない状況なんです」。
精神分析的な雰囲気がただよう。
さて本書の後半に「ねたみの謎」という項がある。スピノザの「ねたみ」の解釈である。
スピノザはねたみの感情を解説して、何人も自分と同等でないものをねたみはしないと言っている/「この人は私とは違う」(略)と思う人物のことを人は妬んだりしない。「こいつにこれができるのなら自分にだってできてもいいはずなのに」(略)と思える人物のことを人はねたむ。引用はここまでにするが、このくだりを読んで「あれっ?そうだろうか」と思った。ボクだったら後者の場合、こう思うからだ。
「こいつにこれができるのなら自分にだってできてもいいはずなのに」と思う、その人物は自分とそれだけ似ている。となれば、「もしかすると、こいつはボクかもしれないぞ」「いや、こいつはボクだ」。そこにねたみが生まれるべくもない。賞賛しかない。こう考えるのは変だろうか。変だろうね、きっと。
ただ気になる書き方ではある。「人物」ではなく「人物のこと」だからである。
■
今日は冷える。