なぜ「アルマン」と呼びかけられたことで病気が治ったのか。以下は、大澤真幸の考察だ(「自由の条件」大澤真幸ら (2015).『生き抜く力を身につける』筑摩書房, pp. 9-39)。
「フレデリック」は名前ではない。どういうことか。「アルマン」が名前なのは自明だ。こう名づけたことで「アルマンと名前のついた個人が、この世に存在している」とみんなが認めた。しかし養父母はわざわざ「フレデリック」に付け替えた。
その理由はこう推測できる。アルマンは親に捨てられた不幸な子。その過去を断ち切り、幸せな子になってほしい、あるいはその過去に縛られない賢い子になってほしい。そういう思いで、つまり親としては善意以外の何ものでもないが、そう考えてつけたがゆえに「フレデリック」は名前ではなくなってしまった。「アルマン」は存在そのものに付けられたもの。将来、どうなるかわからないが、「いろいろな性質を持つかもしれないアルマンがいる」ことを示している。つまり、すべてにおいて開かれていた。かたや「フレデリック」は「アルマン」という名前を断ち切るためのもの。「あなたのかわいそうな過去を捨てて生きてください」との意味が込められている。フレデリックと呼ぶたびに「あなたは幸せな子として、賢い子として生きていきなさい」という意味がそこに含まれることになる。言い換えれば、アルマンはただ存在を認めた名前だったが、フレデリックはある特定の性質(ありかた)を指し示したため「概念」に近い。この子は、生まれてすぐにアルマンという名前をもらったが、フレデリックに変えられた瞬間、名前を失った。ドルトは、奪われた名前をもう一度彼に与えることで、彼自身を取り戻させ、問題を解決したのである。名前は無条件で、その人の「存在を認める」ものでなくてはならない。
慧眼だと思う。
【参考】
アルマン:hopeよりずっとずっと強いhope(願い)。
フレデリック:ゲルマン語から。「平和」と「支配者」の複合語。