2012/06/28

「無縁社会はみんなの努力の結果である」

いつだって大変な時代』の第6章。と、ここでは章タイトルの紹介だけ。
さて名前の第5章は「子供の名前を自由に付けてはいけない」。
以下、小見出しリスト。
不思議な市名
本末転倒の名付け
優柔不断な駅名
名前に意味はない
自分の名前は自分で決められない
真のオリジナルはめざさないほうがいい
名付けの型がなくなってしまった

彼の記述をとびとびに。
名付けは、本来、「切る」行為である。つまり他のものと区別するための行為。新たな存在を生み出す力がある。命名に意味はないが、力はある(ここで『ゲド戦記』を紹介)。名付けの本質は分別が目的で、「表す音ないし字」を作り出すことが目的ではない。音(ないし字)と本体とは無関係。個人個人が別々の名前を持ち、それぞれの個性を持って生きていこうというおためごかしは、名前は自分で選んでいない、という不愉快感を顕在化させるだけ。社会優先なのか個人優先なのか(←ボクの今回のインタビューの結論でもある)。

おまけ
型を身につけなければ型破りはできない、そうでないのは形無し。これを言ったのは立川談志だった。すっかり忘れていた。

フルネームで呼んでくれてありがとう

スティールの『 ステレオタイプの科学 』に、こんなエピソードが紹介されている。  ある伝説の英雄と同姓同名の人物に出会ったことで、研究上の疑問が解けたという話である。  シャーマン・ジェームズは、人種による健康格差の問題に取り組む公衆衛生研究者である。たとえば、アメリカの黒人は白...