「関東大震災 生き抜く姿 反権力の編集者 宮武外骨 伝えた」
その冊子の中にある名前に関する一文が紹介されている。さっそく復刻版を借り出して、当該箇所を探した。
件の記事は震災画報の第4冊に載っていた。「樹下石上の産児」と題する記事だった(カットあり)。
「さて右の産児に名を附けるに、九月一日の大震を記念すべく『九一』とか『震吉』とか、女の児には『ゆり子』或は『しん』などとしたのが多いそうである」。
さらに繰ると、第6冊に詳報が載っていた。
■震時の産児の名 本書前冊所載「樹下石上の産児」に名を附けるに、九月一日の大震を記念すべく「九一」とか、「震吉」とか、女の児には「ゆり子」或は「しん」などしたのが多いそうであると記したが、東京市内の各区役所へ届出た名前の中には、山田震、鈴木震一郎、佐藤震吉、青山震治、伊藤震郎、山本震次郎、木下震次、米山震吉などいうのがあって、大震災を永く表徴せしめんとした親が多かった。(1924年2月「震災画報」第六冊、落葉籠より)
宮武外骨(1988)宮武外骨著作集第3巻 河出書房新社
今回の東日本大震災ではどうだったのだろう。地名も痕跡として大事にすべきだが、痕跡としての人名も大事だ。
※上の写真(企画展「災害記録を読む」より)は、関東大震災のあった9月に出た第1冊の巻頭直後の記事「尋ね人の貼紙」。
※「樹下石上の産児」の記事自体もおもしろい。当夜、上野公園内では70名の妊婦が産気づいて出産。過半は偶然の事象(あれっ、こんなところに「事象」が登場:引用者注)が産期を早めたものと見ねばならない。過去の統計をあてはめると、事変に因っての早産者は45名となるとも書かれている。