「なぜ五輪を呼びたいのか… 招致委幹部が涙したスピーチ」
産経新聞2013年 4月11日8時30分配信
佐藤真海(まみ)=サントリーホールディングス=は東京にいた。激しい揺れ。ここでこんなに揺れるなら、震源地はどれほど大変だろう。
やがてテレビが、津波の第1波を映し出した。故郷気仙沼が海にのみ込まれていく。鳥肌が立った。手をつくしても両親との連絡が取れないまま6日目。行けるところまで行こうと電車に乗ったそのとき、携帯電話が鳴った。
母からだった。
無事と分かるまでの長い時。本当に辛かった。地獄なら、もう見たと思っていた。でもあれは自分のこと。家族のことを思う今の方が、ずっと辛い。そのとき知った。あのころも、私より家族の方がきっと、ずっと辛かったんだ。
一月後、初めて気仙沼に帰った。町に乗り上げた大型漁船。津波の到達点を刻む残酷な境界線。言葉も涙も出なかった。吐き気がした。ただ海は、静かだった。生活の一部だった漁港の海はいつも通り、チャプチャプ、キラキラ。あの日、一瞬化けただけの海。
海を嫌いにはなれない。ならない。子供のころは意識しなかったが、名前にも海がある。
◆笑顔
応援部のチアリーダーとして学生生活を送っていた早大2年の夏、右の足首が痛んだ。
捻挫と思いがまんしていたが、耐えきれなくなって近所の医者に行った。大学病院を紹介され、ここでもがんセンターを勧められた。診断は「骨肉腫」。右足の切断は避けられないと告げられた。
長い抗がん剤治療を経て2002年4月16日、20歳、手術で右足の膝から下をなくした。髪も抜けた。ないはずの右足がいつまでも痛む。「幻肢痛(げんしつう)」というのだという。泣いてばかりいた。なぜ私なのだろう。地獄だと思った。家族、患者仲間、看護師、友人ら、多くの人が支えてくれた。少し元気になったり、また落ち込んだり。そしてスポーツ義足と出合った。
よたよたと、それでも初めてトラックを走った爽快感。スポーツを心から楽しいと思えたのは、このときからだった。
彼女は走り幅跳びでアテネ、北京、ロンドンと3大会連続でパラリンピックに出場した日本のトップアスリートである。
辛い記憶の多い、本当はもっとずっと長い話を、彼女はほんの一瞬涙ぐんだだけで、ほとんどの時間をとびきりの笑顔で語り続けた。誰かが少し離れて見ていたら、どんな楽しい話をしているのかと思ったろう。
「今が本当に楽しいんです。普通の人生に戻れるなら戻りたいと思ったこともあるけど、今が一番いい。義足で走ることで世界と勝負し、いろいろな人と関われるようになった。スランプも含めて充実しています」
2020年オリンピック・パラリンピックを招致している東京に3月、国際オリンピック委員会(IOC)の評価委員らがやってきた。招致レースを勝ち抜くための重要な機会。プレゼンテーションでは佐藤真海も、英語でスピーチを行った。