私に「修」という名前を与えた医師でありながら、彼女(眼科医の伯母)は女性として自由に生きている。「修」という名前にとらわれない逸脱した生き方を、彼女自身が示していた。そんな両面性も、私にどこかモデルとなったように思います。
現在、私が「きたやまおさむ」という平仮名の名前を使用しているのも、そうした動機(引用者注:フォーク・クルセダーズ時代の「北山修」という固定イメージを取り払いたいという気持ち。ソロアルバム『ピエロのサム』は「キタヤマ・オ・サム」名義になっている)によるものです。平仮名にすることで、音が強調され、文字の持つ有意味性が薄れていくように思います。「きたやまおさむ」になることで、私はずいぶんと気が楽になれたような気がします。というくだりを読んだばかりだった(『コブのない駱駝』岩波書店)。
きょうの夕刊に、彼が最終講義をしたという記事が載っていた。講義自体は昨日ではなく、2/4だったらしい(「朝日」に予告が載ったようだ)。
北山修さんが白鴎大で最終講義「包容力が今、社会で一番重要」(東京新聞2017年2月8日夕刊)
「戦争を知らない子供たち」「あの素晴しい愛をもう一度」など数々の名曲を作詞した音楽家で、精神科医である白鴎大の北山修副学長(70)が、3月末の定年退職を前に小山市の同大で公開最終講義を行った。学生に加え、一般聴講者に向け、「不確実なものや未解決のものを受容する力」の意義を説いた。(吉岡潤)
北山修は九州大学でも最終講義を行っている(最終コンサートも)。65歳が定年だからだ。
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この本は、多面性の受容、多面性の勧めでもある。多面性は名前の表記でも実現できる。試しに書いてみる。かわうらやすゆき、カワウラヤスユキ、Yasuyuki Kawaura。