以下は抜粋。
(清潔志向・接触恐怖→排外主義的な他者(外国人)排除や神経症的なまでの回避としての清潔シンドローム(朝シャンやデオドランド製品の流行や潔癖症などの兆候)といった:引用者注)強迫的なまなざしは他者の排除を動機づけているだけでなく、さらにわたしたちの共同体をその内部から支えもしている。例えば、他人を実名で呼ぶことを回避する「忌み名」という習慣がある。他人をじかに名前で呼ぶことの禁止である。これはふつう接触タブーの延長として解釈されている。名前と身体を同一視するところでは、他人の身体に触れることを禁じる風習は、当然のことながら彼の名前にまで及ぶ。「忌み名」の代表的なものといえば「閣下」とか「先生」という呼びかたがすぐに思い浮かぶが、そもそも他人を名ではなく、姓で「〜様」「〜さん」と呼ぶのも、さらには、目の前の相手を「其方」ではなく「彼方」と呼んだり、複数二人称(vous)や複数三人称(Sie)で呼ぶのも同じ理屈である。※衛生マスクの流行や、社会的排斥の深化もこの延長上にある。
※フランケンシュタインとはモンスターの名前ではない。彼を造った医師の名前である。
映画(コッポラ監督の『フランケンシュタイン』)の最後のシーンで、(仮にモンスターをFとしよう)Fが「彼〔フランケンシュタイン博士〕はわたしに名前をつけてくれなかった」とつぶやくが、そのことに映画ではとても深い意味が与えられている。※映画の中では、モンスターに対して「クリーチャー」(被造物)という呼び名が使われている。名前は呼ばれてこそ。
Fは、感情と腕力だけはうまくコントロールできないながらも、すこしずつことばを覚え知力もつけていくが、いろんなひとの肉片をくっつけたつぎはぎのその異様な容貌のゆえに、行く先々で人びとから怖がられ追い立てられる。彼には、呼びかけてくれる他者が存在しないのだ(これが名前のないことの意味である)。そこで、悲嘆に暮れたFは博士を捜しだし、伴侶を造ってくれ、そうしたら彼女と人間が絶対に来ない北の氷原に行って暮らす、という。かつて生命を与えられながら見棄て、いままたいったん受け入れた約束を破る博士への復讐と哀しい結末……。
■ファーストネームで呼ばないことと身体接触への忌避は関係しているかもしれない。