成合明子さんのエッセイ「名前の由来」から
(暮しの手帖, 2019, 第4世紀99号「すてきなあなたに」)
もう十年ほど前になるでしょうか。デパートに入っている和菓子店で、買い物をしたときのことです。配送伝票に名前を書いたのか、クレジットカードを出したのかは忘れてしまいましたが、店員さんが私の名前に目をとめて、「私と同じお名前ですね」と言ったのです。(略)
「明治はいい時代だったから、と父がつけてくれました」。続けてにこやかに口にされたのが、そんな言葉。思いがけない店頭での会話に、ちょっと驚き、でも温かい気持ちを抱えて、その日は帰宅しました。
正直なところ、私は自分の名前が好きではありませんでした。もっとやわらかい響きがよかったのに、と思った幼い頃。小学校に入ったら、読みも漢字も学年で一番多い名前だったことにもがっかり。名前の漢字を説明するのに「明るい」なんてきまりわるい。ずっと「明治の明」で済ませてきました。ずいぶんと「明治」に失礼というものです。
実際、明治がよい時代だったかどうか、私にはわかりません。去年喧伝された「明治百五十年」も、戊辰百五十年と言いたい私。でもきっと、明治という時代の空気を知るお父様が、「いい時代」と感じられたこと、そして我が子の幸せを願って名づけられたこと。娘さんがその言葉を胸に、よき時代を生きてこられたこと。そのすべてが、短い言葉から十分すぎるほど伝わってきました。それ以来ほんの少しだけ、私も自分の名前が好きになるくらい。(略)
名前は名乗ったり書いたり呼ばれたり、ずっと離れられないもの。私のように自分の名前がしっくりこない人も、込められた期待の重さや、逆に願いの薄さが気になる人もいることでしょう。でもいつかどこかで、自分の名前がもっと好きになる。そんな思わぬ出会いが用意されているかもしれません。
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これを書いた成合明子さんは何年生まれなのだろう。「明子」が流行った年生まれらしい。やわらかい響きが、とのことなので、読みは「あきこ」だろうか。命名と名付け親の期待との結びつきはいつごろから言われるようになったのかも気になるテーマだ。
ところで自分の名前は、一生の中でいったい何度再定義されるのだろう。好きなまま逝きたいものだ。
