第百十六段
【原文】
寺院の号、さらぬ万の物にも、名を付くる事、昔の人は、少しも求めず、たゞ、ありのまゝに、やすく付けけるなり。この比は、深く案じ、才覚をあらはさんとしたるやうに聞ゆる、いとむつかし。人の名も、目慣れぬ文字を付かんとする、益なき事なり。
何事も、珍しき事を求め、異説を好むは、浅才の人の必ずある事なりとぞ。
お寺の名前や、その他の様々な物に名前を付けるとき、昔の人は、何も考えずに、ただありのままに、わかりやすく付けたものだ。最近になって、よく考えたのかどうか知らないが、小細工したことを見せつけるように付けた名前は嫌らしい。人の名前にしても、見たことのない珍しい漢字を使っても、まったく意味がない。
どんなことも、珍しさを追求して、一般的ではないものをありがたがるのは、薄っぺらな教養しかない人が必ずやりそうなことである。
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『徒然草』は、1330年ごろにまとめられたとされる。鎌倉時代末期である。著者、吉田兼好は37歳から48歳のあいだにかけて書き続けていたため、成立年次があいまい。
Googleで「徒然草 116段」と入力したら、検索候補として「徒然草 116段 dqnネーム」が出てきた。第百十六段の記述を、DQNネームが昔からあった証拠としてあげる文章群である。
吉田兼好が「目慣れぬ」と評した名前とはいったいどんなものだったのだろう。当時の人々の名前を知る手がかり、どこかにないものだろうか。
漢字はもともと当て字として使われていたから、文字だけ見ると、DQNネームではある。でも吉田兼好には、最近のブームと映ったのだろうね。
当時と今とで違う点がひとつありそう。それは命名動機だ。親の願望とか期待とか反映されていないような気がする。その検証のためにも当時の庶民の名前が知りたい。
当時と今とで違う点がひとつありそう。それは命名動機だ。親の願望とか期待とか反映されていないような気がする。その検証のためにも当時の庶民の名前が知りたい。