宿屋の階下でのできごと。以下は、「あとがきに代えて」(2018年2月)からの抜粋。
食堂の隅でコーヒーを飲んでいると、窓際のテーブルから声がかかった。長身で、カーディガンを肩に掛けた立ち姿には得も言われぬ品があった。互いにミラノから来たことがわかり、一気に打ち解ける。ロベルタは、87歳になる。国語の教師を定年退職した後、郊外で小さな書店を開いた。「ずっと夢でした」ユダヤ系イタリア人。別れ際に、住所交換をしようとロベルタに苗字を尋ねると、「ポントレモリ」と答えた。本の町の名前と同じだなんて、と偶然を感心しかけて私は言葉を呑み込んだ。戦後ユダヤ人たちが出自を隠すために、本当の苗字の代わりに地名を宛てていたことを思い出したからである。「母が選びましたのよ」子に読むことを託した、母親の深慮を思う。
内田洋子『モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語』所収
* * *
母の名前はスミヲ。子供はこれで最後で、しかも男であってほしいと名付けられた。2008年7月10日に死んだ。その日、母はいつも以上に体調が思わしくなくて、ソファに腰かけていた。私はその横でいつものように酒を飲み、うたた寝をしていた。気がつくと母の呼吸が止まっていた。私はそれに気づかずにとなりにいた。
松岡孝志郎「2009」『道端』所収